被爆二世・三世・四世は被爆者青年同盟に結集せよ!
被爆者解放!日帝打倒!
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5月24日、韓国・釜山での韓国被爆二世「故金亨律追慕祭」を終えて、韓国被爆二世組織「患友会」と韓国被爆者組織「韓国原爆被害者協会」のメンバーは、長崎・広島の平和紀行に発ちました。
その長崎紀行が翻訳して届きました(福留さん深謝です)ので、一部ご紹介します。
こうむったウラカミ聖堂の残骸。 (c)チョン・ウノク
「韓国にも原子爆弾が落とされたことがあるんですか」
(オーマイニュース 全恩玉記者)
5月24日、釜山民主公園で韓国原爆2世被害者だった故金亨律(キム・ヒョンニュル)3周忌追慕祭が開かれた。
参席者のうちの一部は、実際の原爆被害者だった。この中には、原爆1世もいたし、2世もいた。
2世の中には、全身で原爆の痛みを体験している「2世患友」たちがいた。この「もう一人の亨律氏たち」は、追慕祭を終えた後、釜山から高速船に乗って、長崎・広島の平和紀行に発った。
5泊6日の日程に行われた今回の平和紀行では、長崎と広島だけでなく、韓国人が原爆被害に遭わざるをえなかった歴史的淵源を明らかにする強制連行の地・筑豊なども訪問した。
[記者注]
1945年8月6日、広島に閃光が走ると、一瞬都市は地獄に変わった。
3日後、長崎で同じことが起こった。街には死体が並び、焼けた体で幽霊のように街をさまよう人たちが死を待ちながらむなしく歩いた。熱い火の地獄を抜け出すための避難の行列だった。
誰かが助けてくれることを、飲み水と食べ物を与え、苦痛から救ってくれることを望んだ人々の行列は限りなかった。生きた人間の体にもハエやウジが湧いた。
火傷をしなかった人たちも、全身にガラスの破片がささって、血を流しながら泣き叫んだ。
人々は家族がそばで死んでいく姿を見なければならず、地上で地獄を見た。絶対に人間に対して使ってはならなかった甚大な罪悪の大量虐殺兵器 原子爆弾。
米国が、日本の広島と長崎に落とした原子爆弾は、このように数十万の命を奪いとった。
高速船に乗って3時間後に、日本の博多港に到着した私たちは、すぐに長崎に移動した。
一夜を過ごし、夜が明けた後に本格的な日程が始まった。
宿舎の長崎カトリックセンターの近くには、建築当時東洋で一番大きな聖堂だった浦上天主堂(カトリック聖堂)があった。
前日に雨が降って、都市はとても鮮明な色彩で迫り、聖堂も同じだった。しかし、聖堂の近くには、原爆に遭った崩れた廃虚の建物の残骸がそのまま残っていた。
天皇の国日本では、今でもキリスト教信仰が根を降ろせずにいる。19世紀には、さらに言うまでもなかっただろう。苛酷な迫害を避けて隠れて信仰生活をしなければならなかったカトリック信徒たちは、かろうじて浦上聖堂を建て、信仰を守った。
しかし、1945年8月9日聖堂から500m離れた上空で爆発した原子爆弾によって、聖堂は無惨に崩れた。聖堂の中にいた神父2名と信徒28名は当然命を失い、浦上教区に属した信徒1万 2千名のうち8,500名が死ぬほど、この付近の被害は深刻だった。
錆ついた建物の残骸が、私の目の前で当時の状況を証言していた。
私には遠い存在だった長崎が、少しずつ私の中に入ってき始めた瞬間だった。
長崎は、日本が鎖国政策を行った江戸時代にも、ポルトガル、オランダ、フランス、英国、米国などと貿易をし、東洋と西洋のエキゾチックな文化が交差した所だ。
この日も電車が道路を行き来する異色の風景の長崎の都心を過ぎて、最初に到着したところは、高島に向かう港だった。
高島は炭鉱で有名な島だったが、朴露子(パク・ノジャ)教授の文によれば、「労働者たちを奴隷として働かせ、コレラが発病した時、生きている患者と死んだ人の死骸を一緒に浜辺で燃やしてしまうなど、想像を超越した犯罪で有名だ」という。 しかし、ここには、朝鮮人が強制的に連れられてきて、奴隷のように働かされて死んでいった島でもある。
日帝の侵略戦争のために連行されていった朝鮮人、死まで放置される
▲ 閉山以後 人の住まない幽霊の島 「軍艦島」。
ここには、強制徴用されて奴隷のように苛酷な生活を送って死んだ朝鮮人と中国人が多かった。
共同墓地の中を通りすぎて、茂みをかき分けて進むと、蚊が猛威を振るう人里離れたところに慰霊塔が一つ立っていた。
慰霊塔の下に日帝時代に強制動員された朝鮮人104具の遺骨が埋まっているという。
慰霊塔の下に日帝時代に強制動員された朝鮮人104具の遺骨が埋まっているという。
彼らは三菱で仕事をして死んだので、三菱でも彼らの個人情報と遺族らの住所を知っているという。三菱重工業は、日帝の侵略戦争の時期に炭鉱・鉱山・土木現場などで朝鮮人を虐待し、差別して奴隷のように働かせたことで悪名高い大企業だ。
三菱は、死んでいった人たちの遺骨を本国に送還したら、自分たちが戦時に朝鮮人に行った残酷行為が明らかになると考えて、故意に隠している。
(c)チョン・ウノク
三菱は、死んでいった人たちの遺骨を本国に送還したら、自分たちが戦時に朝鮮人に行った残酷行為が明らかになると考えて、故意に隠している。
遺骨の一部だけを壷に入れ、残りは土の中に埋葬してしまったのだ。したがって、今は発掘をしても識別が困難だという。
多くの人たちの遺体が全て入り混じっている可能性が多いからだ。
▲ 朝鮮人の遺骸10具が埋まっている悲しみの現場、高島の無縁墓地。多くの人たちの遺体が全て入り混じっている可能性が多いからだ。
(c)チョン・ウノク
軍艦島と高島は、直接的な原爆被害地域ではない。しかし、日帝が戦争のために朝鮮人と中国人を利用した地であり、原爆投下直前に米国の空襲で島が燃え、多くの人たちが死んだ。また、解放後に祖国に帰ろうとした朝鮮人が多かったため、彼らが長崎を通って放射能の被害を被った可能性も高い。
軍艦島は、現在人が入ることができないように統制していて、小さな船に乗って、島の周辺をひと回りして、海から眺めることしかできなかった。人が住んでおらず、廃虚の姿をそのまま保管している
軍艦島は、生きた博物館だった。
日帝が侵略戦争を繰り広げていた時、この一帯は良質の石炭を出す海底炭田があって、「黒いダイヤ」列島を形成していた。外観が戦艦と似ているので、「軍艦島」と呼ばれたこの島もその中一つだった。炭鉱産業で都市が繁盛し、昭和30年代には約5,300名の島民が住み、学校、病院などの公共施設をはじめ、映画館、商店、旅館、寺、神社など、墓地を除いて生活に必要なすべての施設が備わった最先端都市であった。
しかし、日本人の豊かな生活の裏面には、朝鮮人と中国人の血の涙が隠されていた。この島の長さは500mだが、両方の隅に朝鮮人、中国人を別に収容できるように作られていた。日本政府が強制労働の外国人の抵抗があることを予想し、彼らどうしが連帯して抵抗するのを防止するために、このようにしたという。
原爆被害者2世、3世患友問題はいったいどこに?
高島でお昼の弁当を食べて、再び長崎市内に移動した。
まず、原爆落下中心地公園と原爆資料館を訪れた。
この公園は、1945年8月9日原子爆弾が投下された正確な位置を記念するために造られた。
展示室は、被爆前の長崎、原爆投下までの経過、被爆による多様な被害、中日戦争と太平洋戦争、原爆投下までの過程、現代の核兵器などの順に展示をしていた。
爆心地から約700m離れた岩川町で亡くなったツツミ・サトコさんの遺品のうち炭の塊のように変わってしまった弁当と原爆投下当時屋上から降った熱線を直接受けて木の壁に影が鮮明に写されたはしごと監視兵の姿が印象的だった。
しかし、原爆資料館は、「過去形」の原子爆弾の被害は無数に展示していながら、「現在形」の原子爆弾
被害者2~3世の問題は取り挙げていなかった。
平和紀行の参加者のうち、「大腿部無血性壊死症」で人工関節手術を受けてかろうじて生きている韓(ハン)ジョンスン韓国原爆2世患友会会長は、展示物の中で唯一放射能の影響を説明したコーナーに長く留まっていた。
このコーナーでは、被爆後の各種の病気が潜伏期を経て、永い歳月にわたり、着実に発病することを展示していた。
韓会長のご両親は、二人とも広島で被爆した。
父親は被爆当時激しい火傷をしたが、その後狭心症をになって亡くなり、母親はまだ生存している。
韓会長は、広島に原爆が落ちた時は生まれていなかったが、中学生の時から骨が溶けて流れるような苦痛に苦しめられ、数回の手術を受けた。韓会長の兄弟も、狭心症、皮膚病などで苦労している。
しかし、痛みはそこで終わらなかった。
長男まで病気を持って生まれたのだ。
放射能の遺伝ではなくては、とうてい説明する術のない悲劇の家族史だった。
自身の病気も、息子に生じた病気も、原爆の放射能が遺伝子に乗って引き継がれたためであることを確信している韓会長は、容易にそこから離れることができなかった。
しかし、この展示物自体が放射能が2世、3世まで続くというふうに、遺伝問題を公式に認めておらず、通常的に放射能が永い歳月にわたって人体にどんな病気を誘発しうるかについての説明しかなかった。日本政府の公式の立場も、遺伝を認めていないのだ。
まず、原爆落下中心地公園と原爆資料館を訪れた。
この公園は、1945年8月9日原子爆弾が投下された正確な位置を記念するために造られた。
展示室は、被爆前の長崎、原爆投下までの経過、被爆による多様な被害、中日戦争と太平洋戦争、原爆投下までの過程、現代の核兵器などの順に展示をしていた。
爆心地から約700m離れた岩川町で亡くなったツツミ・サトコさんの遺品のうち炭の塊のように変わってしまった弁当と原爆投下当時屋上から降った熱線を直接受けて木の壁に影が鮮明に写されたはしごと監視兵の姿が印象的だった。
しかし、原爆資料館は、「過去形」の原子爆弾の被害は無数に展示していながら、「現在形」の原子爆弾
被害者2~3世の問題は取り挙げていなかった。
平和紀行の参加者のうち、「大腿部無血性壊死症」で人工関節手術を受けてかろうじて生きている韓(ハン)ジョンスン韓国原爆2世患友会会長は、展示物の中で唯一放射能の影響を説明したコーナーに長く留まっていた。
このコーナーでは、被爆後の各種の病気が潜伏期を経て、永い歳月にわたり、着実に発病することを展示していた。
韓会長のご両親は、二人とも広島で被爆した。
父親は被爆当時激しい火傷をしたが、その後狭心症をになって亡くなり、母親はまだ生存している。
韓会長は、広島に原爆が落ちた時は生まれていなかったが、中学生の時から骨が溶けて流れるような苦痛に苦しめられ、数回の手術を受けた。韓会長の兄弟も、狭心症、皮膚病などで苦労している。
しかし、痛みはそこで終わらなかった。
長男まで病気を持って生まれたのだ。
放射能の遺伝ではなくては、とうてい説明する術のない悲劇の家族史だった。
自身の病気も、息子に生じた病気も、原爆の放射能が遺伝子に乗って引き継がれたためであることを確信している韓会長は、容易にそこから離れることができなかった。
しかし、この展示物自体が放射能が2世、3世まで続くというふうに、遺伝問題を公式に認めておらず、通常的に放射能が永い歳月にわたって人体にどんな病気を誘発しうるかについての説明しかなかった。日本政府の公式の立場も、遺伝を認めていないのだ。
▲ 米粒が真っ黒に焦げて、当時のおぞましい状況を証言する女子学生の弁当。
弁当の持ち主は被爆で死んだ。 (c)チョン・ウノ
弁当の持ち主は被爆で死んだ。 (c)チョン・ウノ
公園を抜ける道の外郭には、朝鮮人原爆被害者のための記念碑がとても小さく建てられていた。
あの広い資料館と公園を見渡してもたやすく見出せなかった日本の侵略戦争と植民支配そして朝鮮人の苦痛に対する正直な反省を、この小さな記念碑一つが代弁しえなかったので、私たちの後ずさりは寂しいものだった。
日本のMBC放送局の撮影チームが付いてきて、韓国原爆2世患友右に関心を持っているのが、少しは慰めになった。
ハン・ジョンスン会長は、原爆2世患友の問題が公論化されない日本社会に対し、持続的に失望していた渦中だったので、「1分のインタビューでも、日本の視聴者に、韓国原爆2世患友としての声を伝えられることは、幸せだ」と言った。
1945年8月に広島と長崎にいた直接被爆者に対しては、誰も被害者と考える。
しかし、彼らの2世、3世に対しても、原爆の被害者と考える人はめずらしい。
米国と日本政府は、「補償」問題のために、どうしても原爆の「遺伝」を認めようとせず、韓国政府は日本も認めていない問題をなぜ自分たちが先に進むのかというふうで、原爆2世、3世の人権を無視したまま、自国国民を放置している。
原爆問題は、この63年の間解決されず、同じ場所をぐるぐる回ってきたように、いまだ進むべき道はあまりに遠いように思える。
しかし、絶望は早い。
原爆被害者の存在は知っていても、2世たちの存在について関心もなく、無知だった韓国社会に、「金亨律」が自身の情熱を傾けて隠された歴史の傷をさらけ出したように、別の「金亨律たち」が勇気を出し始めたからだ。
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