被爆二世・三世・四世は被爆者青年同盟に結集せよ!
被爆者解放!日帝打倒!
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今年5月24日に執り行なわれた「3回忌 金 亨律 追慕祭」に寄せて、韓国日刊紙「ハンギョレ」が今年も特集記事を組みました。
今回は金亨律評伝『命は継続されねばならない』を執筆したチョン・ジンソン釜山教育大教授へのインタビュー記事です。
在日被爆3世の鄭伊佐さんが翻訳をしてくださいましたので掲載します。
※は夾竹桃の註釈です。
-------
ハンギョレ (‘08・5/24)
人権に昇華した「原爆2世 金亨律」についての記憶
─ インタビュー 「命は継続されねばならない」広めたチョン・ジンソン 教授 ─
「3回忌金亨律追慕祭」でのチョン・ジンソン 教授
「すみませんが、タバコの火をちょっと消していただけますか?」
値段の安い韓国料理屋のテーブルを前に置き、彼が言った。
2003 年5月のある日の夕方だった。
彼はしきりにひからびた咳をした。
「肺病があるので……タバコの煙が 致命的なんです」少し前、彼は釜山市釜山鎮区田浦洞のアジア平和人権連帯の事務室を訪ねてきた。原爆被害者問題を議論したいと言った。
アジア平和人権連帯運営委員が若干名、彼と一緒に夕食をとり、話を分かちあった。
彼は自身を原爆被害者2世患友会の金亨律だと紹介した。
163cm、37kgの体躯がすでに彼の病を物語っていた。
「勉強不足だったです。韓国にも原爆被害者がいると知ってはいたが、 その2世が被害を経験したという話は初めて聞きました」チョン・ジンソン釜山教育大教授(社会教育科)は、やや小さくやせた 彼をひたすら憐れみ、痛ましく思った。
次の日、チョン教授は釜山大の正門で彼に再び会った。「差し上げる資 料があります」金亨律は分厚い書類の塊を渡した。
そして自身の境遇を情熱的に説明した。
痛ましさをかもし出していた前日の彼ではなかった。「まったく違う人でした。人をひきつける力だったですね。弁舌が達者だからではなく、ひ弱な体からわき出てくる力、正しく真実を話そうとする力、 そういうものを感じました。ひたすら同情する問題ではないと思いましたね」
金亨律は、原爆2世の患友と関連した資料を次から次へと掘り出 し、助け手となるのにちょうどよい団体をことごとく探し、往来していた。
これを通じて、原爆問題の最も心の底から人権問題の最も高い価値を長く記録した。
長く記録し、2005年5月29日に世を去った。
また 3年が流れ、チョン教授が本を書いた。
金亨律評伝『命は継続されねばならない』(ヒューマニスト社、 1万2000ウォン)を売りに出した。
短い命を生きた金亨律を永く記憶しようとする努力である。
原爆被害者 についての記憶であると同時に 歴史についての記憶である。
チョン教授はドイツで現代知性史を専攻し、講壇に席を得た後、続けて 歴史と記憶に関する本を書いた。
『博物館の誕生』(サルリム社 2004)『歴史が記憶を語る』 (ヒューマニスト社 2005)などが彼の著述だ。
そのような彼にとって金亨律は、歴史がもたらした最も悲劇的な存在であると同時に、これを不屈の意志で克服しようとした最も情熱的な人間だった。
金亨律は原爆2世患友だ。この言葉は彼がつくった。
これにより原爆被害者2世・3世たちの生が社会に知られるようになった。
2002年3月、原爆被害者の子として生まれ、長い間疾病の苦痛を味わったことを国内で初めて「カミングアウト」した。
痛いと言うことがなぜそれほど大変か?
「原爆1世は原爆の遺伝を認めていません。2世に社会的不利益が及ぶのが心配だからでしょう。もちろん大多数の原爆2世は健康です。しかし苦しむ2世がいるのも事実です。金さんはこれを人権・反戦・平和の問題に拡張させました」
1945年、アメリカの原爆投下により、広島と長崎であわせて70万 余名が被爆の被害に遭った。
そのうち10%の7万余名が韓国人だった。彼らは「三重の苦痛」を味わった。
植民地支配の苦痛、原爆被害の苦痛、韓日政府から放置された苦痛がそれである。
しかし原爆2世患友 は、また異なる苦痛を背負った。
原爆被害1世代からも相手にされない苦痛だった。
「金さんは韓 国と日本の原爆被害者団体から圧力をたくさん受けました。 後からの遺伝で病気になったということをどうやって立証できるのか、というのでしょう」
─歴史がもたらした悲劇的存在 情熱的な人間 被害者の子らの生 社会に知らせた後に息絶え「歴史と人権についての普遍的な考えに驚いて」─
金亨律は2005年5月、東京で開かれた国際シンポジウムに出席して、韓国原爆被害者協会の幹部から非難めいた話を聞き、衝撃を受けたと 言った。
翌日から喀血が始まり、帰国からわずか5日後に世を去った。
彼が遺した資料を整理しながらチョン教授は、重ね重ね驚いた。
5坪くらいの部屋は、季刊『歴史批評』を始めとした現代史の関連書籍と英文医学ジャーナルを含めた各種医学書籍でぎっし りつまっていた。
彼のコンピュータには生前に送った電子メール、各種活動資料と論文、発表文、日記などが細 かく分類されていた。
彼が遺した文字には、社会科学者と違わぬ眼目と識見が表れている。
検定試験で高校を卒業し、専門大学で技術を勉強しながら一人の力で各種書籍と資料を読破したおかげだった。
「苦しむ人は自分の問題だけに陥りやすいが、それを越えて歴史と人権についての普遍的な考え方をしたということが、最も驚きで感動的でした」
金亨律が生まれた1970年は全泰壹(※1)が世を去った年である。
金亨律 は全泰壹のように苦痛の本質に目を向け、体で抗った。
金亨律は全泰壹と異なり、労働問題ではなく生命問題を通じて疎外され た者の人権を提起した。
二人がそれぞれの時代の象徴と考えるチョン教授は、そういう点からチョ・ヨンネ弁護士の口実を言い負かした。
今必要なのは、全泰壹の評伝の読者を継承する金亨律の評伝の読者だ。 アン・スチャン記者
─「広島の被害者」2世患友問題解決の「先頭 今日 金亨律3周忌追慕式 ─
1970年7月に釜山で生まれた金亨律は、生まれつき体が弱かった。
一緒に生まれた一卵性双生児の弟は生後1年6カ月で死亡した。
原因不明の疾病に苦しめられて いた彼は、1995年には自身の病気が先天性免疫欠乏症であることを知った。
そしてその原因が慶尚南道・陜川で生まれ、日本の広島に移った母の被爆と関連があると確信するようになった。
2002年3月の「カミングアウト」の後、本格的に原爆2世患友の問題を 解決することに関わった。
「韓国原爆2世患友会」を結成し、さまざまな人権団体に助けられて韓国と日本を往来し、活動した。
2003年8月、「原爆2世患友問題解決のための共同対策委」がつくられ、2004年8月には国家人権委が実態調査を始めた。
金氏は始めから終わりまで事を成し遂げようとして先頭に立った。
彼が世を去った直後の2005年6月、「原爆被害者真相究明及び支援のための特別法案」が国会に提出されたが、結局は法律制定に至らず、17代国会の会期満期を迎えている。2名の会員がすべてだった原爆2世患友会は、いま会員数が470名に至る。
彼の3周忌を迎える24日午前11時、釜山民主公園小劇場で追慕式が開かれる。
アン・スチャン記者
------
※1
全泰壹(チョン・テイル)
東大門の平和市場の零細工場で働く22歳の青年労働者チョン・テイルは、幼い被服工の少女たちが低賃金劣悪な労働条件で働かされていることに怒りをもって労働運動に決起。
1970年11月13日、一向に労働法を施行しない「維新」政府への抗議デモに起つ。
そのデモは「維新」政府の弾圧で強制解散させられ、意を決して彼は自身にガソリンを被り、火を放ち焚身決起した。
この彼の闘いが、韓国の民主労組運動を大きく切り開くものとなった。
現在も「チョン・テイル精神」は韓国労働運動=階級闘争、とりわけ韓国民主労総の中に脈々と受け継がれている。
今回は金亨律評伝『命は継続されねばならない』を執筆したチョン・ジンソン釜山教育大教授へのインタビュー記事です。
在日被爆3世の鄭伊佐さんが翻訳をしてくださいましたので掲載します。
※は夾竹桃の註釈です。
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ハンギョレ (‘08・5/24)
人権に昇華した「原爆2世 金亨律」についての記憶
─ インタビュー 「命は継続されねばならない」広めたチョン・ジンソン 教授 ─
「3回忌金亨律追慕祭」でのチョン・ジンソン 教授
「すみませんが、タバコの火をちょっと消していただけますか?」
値段の安い韓国料理屋のテーブルを前に置き、彼が言った。
2003 年5月のある日の夕方だった。
彼はしきりにひからびた咳をした。
「肺病があるので……タバコの煙が 致命的なんです」少し前、彼は釜山市釜山鎮区田浦洞のアジア平和人権連帯の事務室を訪ねてきた。原爆被害者問題を議論したいと言った。
アジア平和人権連帯運営委員が若干名、彼と一緒に夕食をとり、話を分かちあった。
彼は自身を原爆被害者2世患友会の金亨律だと紹介した。
163cm、37kgの体躯がすでに彼の病を物語っていた。
「勉強不足だったです。韓国にも原爆被害者がいると知ってはいたが、 その2世が被害を経験したという話は初めて聞きました」チョン・ジンソン釜山教育大教授(社会教育科)は、やや小さくやせた 彼をひたすら憐れみ、痛ましく思った。
次の日、チョン教授は釜山大の正門で彼に再び会った。「差し上げる資 料があります」金亨律は分厚い書類の塊を渡した。
そして自身の境遇を情熱的に説明した。
痛ましさをかもし出していた前日の彼ではなかった。「まったく違う人でした。人をひきつける力だったですね。弁舌が達者だからではなく、ひ弱な体からわき出てくる力、正しく真実を話そうとする力、 そういうものを感じました。ひたすら同情する問題ではないと思いましたね」
金亨律は、原爆2世の患友と関連した資料を次から次へと掘り出 し、助け手となるのにちょうどよい団体をことごとく探し、往来していた。
これを通じて、原爆問題の最も心の底から人権問題の最も高い価値を長く記録した。
長く記録し、2005年5月29日に世を去った。
また 3年が流れ、チョン教授が本を書いた。
金亨律評伝『命は継続されねばならない』(ヒューマニスト社、 1万2000ウォン)を売りに出した。
短い命を生きた金亨律を永く記憶しようとする努力である。
原爆被害者 についての記憶であると同時に 歴史についての記憶である。
チョン教授はドイツで現代知性史を専攻し、講壇に席を得た後、続けて 歴史と記憶に関する本を書いた。
『博物館の誕生』(サルリム社 2004)『歴史が記憶を語る』 (ヒューマニスト社 2005)などが彼の著述だ。
そのような彼にとって金亨律は、歴史がもたらした最も悲劇的な存在であると同時に、これを不屈の意志で克服しようとした最も情熱的な人間だった。
金亨律は原爆2世患友だ。この言葉は彼がつくった。
これにより原爆被害者2世・3世たちの生が社会に知られるようになった。
2002年3月、原爆被害者の子として生まれ、長い間疾病の苦痛を味わったことを国内で初めて「カミングアウト」した。
痛いと言うことがなぜそれほど大変か?
「原爆1世は原爆の遺伝を認めていません。2世に社会的不利益が及ぶのが心配だからでしょう。もちろん大多数の原爆2世は健康です。しかし苦しむ2世がいるのも事実です。金さんはこれを人権・反戦・平和の問題に拡張させました」
1945年、アメリカの原爆投下により、広島と長崎であわせて70万 余名が被爆の被害に遭った。
そのうち10%の7万余名が韓国人だった。彼らは「三重の苦痛」を味わった。
植民地支配の苦痛、原爆被害の苦痛、韓日政府から放置された苦痛がそれである。
しかし原爆2世患友 は、また異なる苦痛を背負った。
原爆被害1世代からも相手にされない苦痛だった。
「金さんは韓 国と日本の原爆被害者団体から圧力をたくさん受けました。 後からの遺伝で病気になったということをどうやって立証できるのか、というのでしょう」
─歴史がもたらした悲劇的存在 情熱的な人間 被害者の子らの生 社会に知らせた後に息絶え「歴史と人権についての普遍的な考えに驚いて」─
金亨律は2005年5月、東京で開かれた国際シンポジウムに出席して、韓国原爆被害者協会の幹部から非難めいた話を聞き、衝撃を受けたと 言った。
翌日から喀血が始まり、帰国からわずか5日後に世を去った。
彼が遺した資料を整理しながらチョン教授は、重ね重ね驚いた。
5坪くらいの部屋は、季刊『歴史批評』を始めとした現代史の関連書籍と英文医学ジャーナルを含めた各種医学書籍でぎっし りつまっていた。
彼のコンピュータには生前に送った電子メール、各種活動資料と論文、発表文、日記などが細 かく分類されていた。
彼が遺した文字には、社会科学者と違わぬ眼目と識見が表れている。
検定試験で高校を卒業し、専門大学で技術を勉強しながら一人の力で各種書籍と資料を読破したおかげだった。
「苦しむ人は自分の問題だけに陥りやすいが、それを越えて歴史と人権についての普遍的な考え方をしたということが、最も驚きで感動的でした」
金亨律が生まれた1970年は全泰壹(※1)が世を去った年である。
金亨律 は全泰壹のように苦痛の本質に目を向け、体で抗った。
金亨律は全泰壹と異なり、労働問題ではなく生命問題を通じて疎外され た者の人権を提起した。
二人がそれぞれの時代の象徴と考えるチョン教授は、そういう点からチョ・ヨンネ弁護士の口実を言い負かした。
今必要なのは、全泰壹の評伝の読者を継承する金亨律の評伝の読者だ。 アン・スチャン記者
─「広島の被害者」2世患友問題解決の「先頭 今日 金亨律3周忌追慕式 ─
1970年7月に釜山で生まれた金亨律は、生まれつき体が弱かった。
一緒に生まれた一卵性双生児の弟は生後1年6カ月で死亡した。
原因不明の疾病に苦しめられて いた彼は、1995年には自身の病気が先天性免疫欠乏症であることを知った。
そしてその原因が慶尚南道・陜川で生まれ、日本の広島に移った母の被爆と関連があると確信するようになった。
2002年3月の「カミングアウト」の後、本格的に原爆2世患友の問題を 解決することに関わった。
「韓国原爆2世患友会」を結成し、さまざまな人権団体に助けられて韓国と日本を往来し、活動した。
2003年8月、「原爆2世患友問題解決のための共同対策委」がつくられ、2004年8月には国家人権委が実態調査を始めた。
金氏は始めから終わりまで事を成し遂げようとして先頭に立った。
彼が世を去った直後の2005年6月、「原爆被害者真相究明及び支援のための特別法案」が国会に提出されたが、結局は法律制定に至らず、17代国会の会期満期を迎えている。2名の会員がすべてだった原爆2世患友会は、いま会員数が470名に至る。
彼の3周忌を迎える24日午前11時、釜山民主公園小劇場で追慕式が開かれる。
アン・スチャン記者
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全泰壹(チョン・テイル)
東大門の平和市場の零細工場で働く22歳の青年労働者チョン・テイルは、幼い被服工の少女たちが低賃金劣悪な労働条件で働かされていることに怒りをもって労働運動に決起。
1970年11月13日、一向に労働法を施行しない「維新」政府への抗議デモに起つ。
そのデモは「維新」政府の弾圧で強制解散させられ、意を決して彼は自身にガソリンを被り、火を放ち焚身決起した。
この彼の闘いが、韓国の民主労組運動を大きく切り開くものとなった。
現在も「チョン・テイル精神」は韓国労働運動=階級闘争、とりわけ韓国民主労総の中に脈々と受け継がれている。
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